BLOG 美術探訪
2025.08.19
乳白の美と静謐◆藤田嗣治(レオナール・フジタ)◆
洋画家・藤田嗣治(ふじた つぐはる、レオナール・フジタ)は
20世紀前半の美術界で国際的な評価を得た日本人画家であり、パリを拠点に活躍した数少ない東洋人芸術家のひとりです。
彼が描き出した乳白色の肌をもつ裸婦像や猫の絵、戦争画や宗教画まで
多彩なジャンルと表現を横断する作風は、まさに唯一無二の存在感を放っています。
その人生は、芸術家としての信念と、時代のうねりに翻弄された複雑な足跡に彩られ、今もなお多くの人々の心を惹きつけ続けています。
藤田嗣治は1886年に東京に生まれました。
幼少期から芸術に惹かれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)で洋画を学んだのち、1913年に単身パリへ渡ります。
到着したのはエコール・ド・パリ全盛の時代。モディリアーニ、ピカソ、スーティンらと交流しながら、自らの表現を模索していきました。
和紙のような乳白色の肌と繊細な輪郭線によって描かれた裸婦像は
当時の西洋美術界に大きな衝撃を与え、瞬く間にその名を知らしめました。
1920年代にはパリで最も成功した東洋人画家と呼ばれ、サロン・ドートンヌや個展でも大きな成功を収めました。
特に1923年の大作「五人の裸婦」は、藤田嗣治の名を不動のものにした代表作です。
日本画の技法をベースにしながらも、西洋の油彩技法を融合させた独自の手法は、当時の批評家からも高く評価されました。
また、彼は猫好きとしても知られ、「私の部屋」「猫を抱く女」など、ユーモラスで愛らしくも緻密な猫の作品を多数残しています。
これらは単なる動物画ではなく、精神性や個性を宿した存在として描かれており、見る者の感情に訴える力をもっています。
藤田嗣治は一方で、時代の流れに翻弄された画家でもあります。
1930年代には帰国し、日本各地で個展を開催。戦時中は陸軍省の依頼を受け、従軍画家として活動しました。
「アッツ島玉砕」など、戦地の凄惨な光景を描いた作品は、歴史資料としても重要な価値を持ちながら
戦後には戦争協力者として批判される一因ともなりました。
この経験は、戦後の彼の心に深い傷を残し、再びフランスに戻るきっかけとなります。
1955年、藤田嗣治はフランス国籍を取得し、カトリックに改宗。洗礼名レオナールを得て、以後「レオナール・フジタ」として活動を続けました。
晩年には宗教的なテーマに深く傾倒し、ランスにある「平和の聖母礼拝堂(Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)」を自ら設計・装飾。
壁画、フレスコ、ステンドグラス、備品に至るまで、すべてを自身で手がけたこの聖堂は
彼の芸術と信仰の結晶であり、現在でも多くの人々が訪れる重要文化財です。
藤田嗣治の作品は、現在も国内外の美術館やギャラリー、コレクターの間で高く評価されています。
特に1920年代の黄金期に制作された裸婦像や猫の作品は、オークション市場においても高額で取引される傾向にあります。
また、戦争画や宗教画といった後期の作品も、その時代背景や芸術的価値が再評価されつつあり、資料的な価値を含めて注目度が高まっています。
その一方で、藤田嗣治の画業は常に光と影を背負ってきました。
パリで絶賛されたかと思えば、日本では誤解や批判にさらされるなど、文化の狭間で生きた表現者ならではの苦悩がそこにはあります。
特に戦争画への関与をめぐっては、戦後に大きな評価の転換が起こり
芸術家としての純粋な探究と時代の要請との間で揺れる姿が浮かび上がってきます。
それでもなお、藤田が生涯を通じて貫いたのは、「自らの美を信じ、描き続けること」でした。
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藤田嗣治は、単なる画家ではなく、「文化の橋渡し役」として生涯をかけて芸術に向き合った人物です。その作品には、彼の内面の葛藤、信念、美意識がすべて凝縮されています。だからこそ、藤田の絵は今もなお私たちに問いかけ、語りかけてきます。そんな作品を大切に扱いたい、想いを込めて受け継ぎたい――ミライカ美術は、そうした方々の思いを真摯に受け止める買取専門店であり続けます。
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